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壮絶な斬り合い!「池田屋事件」の激闘

新選組6大事件 第5回

 この井上隊の突入に勇気づけられ、それまで表口の守備についていた近藤隊の武田観柳斎が、やはり屋内に踏み入っている。ちょうどそこへ、天井の上に隠れていた浪士が、板が壊れて落ちてきたので、武田はこれ幸いとばかりに斬り捨てて手柄とする。
 土方隊の到着によって人数的に余裕のできた新選組は、方針を斬り捨てから捕縛へと変更した。そして、このころになってようやく3000人ほどの諸藩兵が沿道にあふれ、池田屋を遠巻きにした。
 浪士たちの逃げ場は完全に閉ざされ、もはやこれまでと、大高忠兵衛(播州林田)、佐伯稜威雄(長州)ら4人が捕虜となった。
 新選組との戦闘によって、浪士側では宮部鼎蔵(肥後)、吉田稔麿(長州)、広岡浪秀(長州)、望月亀弥太(土佐)、石川潤次郎(土佐)、大高又次郎(播州林田)、福岡祐次郎(伊予松山)が池田屋内部およびその周辺で討死する。
 ほかに池田屋の集会には参加していなかった者で北添佶磨(土佐)、杉山松助(長州)が討死。以上9人が志士側の死者ということになるが、ほかに吉岡庄助(長州)、藤崎八郎(土佐)、野老山五吉郎(土佐)の3人が事件とは無関係ながら、巻き添えを食って斬り死にしている。

 また、松田重助(肥後)は負傷して捕縛後、獄中にて6月8日に落命した。この松田を含めれば、実に13人もの志士が当夜の戦闘によって討ち果たされたことになる。捕虜となったのは4人だが、新選組は諸藩兵とともに浪士狩りと称して市中の掃討戦を翌朝まで繰り広げており、その結果、さらに20余人の関係者を捕縛している。
 こうして池田屋事件は幕を降ろし、京都焼き討ちの暴挙は未然に防がれた。
翌日の正午になって、新選組は隊士を二列縦隊にして壬生村に帰隊した。沿道は見物人であふれ、その凱旋の様子を見た屯所の八木源之丞は、
「江戸で赤穂浪人が、仇を討って菩提寺へ引き揚げたというときは、こんなものであったろうな」
 と語っている。隊士たちは、みな返り血を浴びていて、衣服が赤く染まっていた。浅葱色に白く山形を抜いた羽織は、すでに制服としては用いられなくなっていたようだが、7、8人の者が陣羽織のように肩に引っかけていた。気分は、赤穂浪士そのものであったろう。

 2日後の6月7日、新選組の働きに対して、会津藩から500両の報奨金が下され、また2カ月後の8月4日になって、幕府からも600両の金が下されて隊士に分配された。近藤は30両、沖田には20両が与えられている。
 殊勲の新選組に対する褒美は、これらの金だけではなく、近藤以下の隊士総員を幕府直参として召し抱える話もあった。しかし、近藤はこれを断った。
「私は新選組隊長で結構です」
 と言い、与力上席とも両番頭次席ともいわれる格式を辞退したと伝わっている。
 あるいは格式が低いことに不満があったのかもしれない。幕臣になれるなら条件はどうでもいいというわけではなく、近藤は自分たちの誇りを満足させられるような取り立てを望んでいた。池田屋事件という大舞台で主役を張った、自信のあらわれであっただろう。

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山村 竜也

やまむら たつや

歴史作家、時代考証家

歴史作家、時代考証家。NHK大河ドラマ『新選組!』などの時代考証を手がける。著書には『世界一よくわかる新選組』(祥伝社)、「新選組の謎と歴史を訪ねる」(ベスト新書)ほか、多数ある。


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